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2010年11月18日

由来、日本の刀は、人を斬り、人を害するために鍛えられてあるのではない。御代を鎮め、世を護りたまわんがために、悪を掃い、魔を追うところの降魔(ごうま)の剣であり--又、人の道を研き、人の上に立つ者が、自ら誡め、自ら持するために、腰に帯びる侍のたましいであるから--それを研ぐ者もその心を持って研がねばならぬぞ・・・

吉川英治『宮本武蔵』(6)
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2010年11月16日

女の覚悟

今の肚をすえるまでには、さんざん生死の問題に苦悩したり、日常の修養だの、さむらいとしての鍛錬だのを積んで来て、やっとこの覚悟になり得るまでになって来たと思うのである。--だのに、女は、そういう鍛錬も苦悩も経ずに、いきなりなんらの惑いもなく、

(--わたくしも生きていないつもりです)

と、すずやかにいう。・・・どんな覚悟のよい侍でも及ばないほどの静かな眸で死を見ているのである。

吉川英治『宮本武蔵』(4)
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2010年11月13日

単純なる複雑

「わたしの絵くらいな程度までは、誰にでも行き得る境地といってもかまいませんが、この辺になると、道高く、山深く、非凡過ぎて、たた学べば行けるという境地ではありません」・・・成程、それは一見単純な墨一色の粗画に過ぎないが、その中に持っている「単純なる複雑」に、彼もようやく少しずつ眼をひらいて来た。

吉川英治『宮本武蔵』(4)
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2010年11月12日

無智はいつでも、有智よりも優越する

無智はいつでも、有智よりも優越する。相手の知識を、恬として無視し去ってしまう場合に、無智が絶対につよい。生半可な有智は誇る無智に向って、施すに術がないという恰好になってしまう。

吉川英治『宮本武蔵』(4)
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2010年11月11日

刃物

刃物を持った人間はそう怖いものではないが--しかし、刃物に持たれている人間は怖い。

吉川英治『宮本武蔵』(4)
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無我の境地

--敵の相(すがた)を剣のさきへおいて、自分が無我になったとき--自分と天地がひとつの物になったような気持--いや気持などというものさえ失くなった時、剣はその敵を斬っている。--光悦どのは、まだあの水を敵として睨んでいるから描けないのだろう、自分があの水になればよいのだ。

吉川英治『宮本武蔵』(3)
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2010年11月10日

一歩が機微

人生の道はいつも、一歩が機微である。また、なにかの場合に、ふだんの常識さえあれば、分りきっていることを、ふと、心へ間違いを映しとってしまうためにその一歩が、十年のまちがいになったりする。

吉川英治『宮本武蔵』(3)
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人間の差

しかし、人間の差は、年にはよらないものである。質でありまた質の研きによる。平常の修養鍛錬がものをいうことになると、王者と貧者とでも、この違いはどうにもならない。

吉川英治『宮本武蔵』(1)
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