2010年11月11日

無我の境地

--敵の相(すがた)を剣のさきへおいて、自分が無我になったとき--自分と天地がひとつの物になったような気持--いや気持などというものさえ失くなった時、剣はその敵を斬っている。--光悦どのは、まだあの水を敵として睨んでいるから描けないのだろう、自分があの水になればよいのだ。

吉川英治『宮本武蔵』(3)
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