つまりケータイ小説の魅力というのは、日常の会話や情景など、こうした圧倒的なディテールのリアリティにあるといえます。魔法のiらんどの遊佐さんは、こうも話しています。
「ガッコ王の裏で待ち合わせしたときの会話とか、教室の中のやりとりとか、あるいはお母さんに弁当をつくってもらったときの感情とか、そういうディテールが読者の共感を呼んでいるんです。ケータイ小説家たちは、いかにして自分の体験が読者たちにつながるかを目指しているのであって、すばらしい評言や新しい世界観を切り開こうとしている純文学を目指す人とはそこが決定的に違う」
言い換えれば、ケータイ小説というのは従来のいわゆる「文学」「小説」といったコンテンツとは異なって、読者と書き手の双方を来るんだ共有空間のようなものを生み出すためのシステムと呼んでもいいでしょう。
つまり自分とその共有空間でつながるための装置として、ベタなリアリティが存在しているというわけです。
「ああ、私と同じ会話をしている」「私と同じ経験をしている」
と感じることで、自分と他の人々が同じ空間を共有しているような感覚につながることができるわけです。
だとすればケータイ小説というのはコンテンツではなく、コンテキスト(文脈)なのかもしれません。
佐々木俊尚 「電子書籍の衝撃~本はいかに崩壊し、いかに復活するか~」