2010年10月8日

古代史

記録のない古代を詮索するのは、実証性というレフェリーやリングをもたないボクシングのようなもので、殴り得、しゃべり得、書き得という灰神楽の立つような華やかさがあるものの、見物人にはなんのことやらわかりにくい。

ひとたびこの古代史に論争が巻きおこるや、杯盤狼藉、見物席からみれば勝ち負けどころか、これは誰のサカズキやらサカナやら、さっぱりわからなくなることが多い。

文字文化以前の日本の古代史的思考というのは、幻想によって成立している。もっともただの幻想では虚妄癖にすぎないから、「記紀」や「魏志倭人伝」の叙述の片鱗の真否を洗いつつ事実のカケラをあつめてきて、論者それぞれが、めいめいの幻想に浮力をつけているわけで、幻想であることにかわりがなく、そこに存在するのは誰に幻想がより良質かというのみであり、逆にいえば古代史の蠱惑的なばかりの魅力はそこにあるのである。

司馬遼太郎 「街道をゆく」