2011年5月6日

キッテル『神学事典』「パレーシア

キッテル『神学事典』の「パレーシア」の項目で、シュリーアはオクシュリュンコス・パピルスから(エジプトでの古代ギリシアの法、慣行)のひとつを引用し、「長である人物から抑圧を受けた場合は、行政の長に会いに行き、彼にmeta parrhesiaで語るべし」、と記述している 『ヘレンニウスに宛てた弁論術』では、パレーシアのラテン語訳であるlicentiaの定義として、「あるひとが、畏れ敬うべきひとびとにたいして語りかけるということからなるなにものか」とされていて、つまり「自分自身の権利に鑑みて、権力者であるひとびとが犯した過ちについて、本来畏れ敬うべきひとびとを非難するということなのです。つまりパレーシアとはこういうことです。まず、過ちを犯した権力者がいる。そしてその過ちとは、弱く、いかなる権力もなく、いかなる対抗手段ももたず、本当の意味で戦ったり復習したりすることができず、根本的に不平等な状況にいる何者かに対する不正なのです。それではその何者かにできることは何でしょうか。あるひとつのことです。つまりことばを発し、自分の危険と災いを引き受けた上で、不正を働いた人物に向かって話しかけ、語るということです。その時、その人のことばこそがパレーシアと呼ばれるものなのです。他の弁論家や弁論術の理論家たちも、かなりそれに似通った定義を与えています」。(邦訳169)