その唯一といっていい理由は、沖縄諸島では砂鉄を産しなかったからである。
沖縄では石でつくったへらのようなものを農具として用いるいわゆる耨耕(じょくこう)文化がながくつづいた。耨耕といっても生産性はきわめてひくく、自然、所有欲が小さな限界でとどまり、とくに土地所有欲は室町時代までは沖縄ではほとんど現実性をもたなかったはずである。土地所有欲が希薄であることは、その欲望をエネルギーとする大型の闘争が必要なく、げんに沖縄史をみると、鉄器の導入以前には大征服事業というものはなかった。諸島のなかでもっとも歴史の進行の速度が早かった沖縄本島においてさえ、十四世紀初頭ごろまでは神話と伝説の時代といっていい。
言いかえれば、この島(竹富島)は、人類の他の歴史の進展をよそにながながと石器をつかい、それによる小規模な生産で自給自足していたころこそ極楽島であったかもしれない。鉄器時代に入り、鉄の鍬で土を深く耕すようになってから苦しみがはじまったとも言えるかもしれない。
十五、六世紀まで石器や木器というおよそ生産性のない道具で暮らしていた八重山諸島のひとびとの気分が、本土人のそれにくらべると、ときに深海魚と浅海魚ほどにちがうのではないか。
竹富島や石垣島、西表島などで話されている八重山方言は、故宮良当荘博士のことばを借りると、「上代日本語の博物館」の観があるとされ、また八重山方言こそ日本語の母語であるという言い方もある。おなじ日本人が、本土では「細戈千足」(くわしほこのちだる)の鉄器をがちゃがちゃ鳴らしあい、相互影響しあい、それによる共通のたけだけしい気質を作りあげてしまったが、石器・木器の時代が日本の室町期までつづいたこの諸島では、島一つについても伝統的に価値観がちがっていた。
宝の島である西表島に見むきもせず、隆起サンゴ礁の砂地にすぎない竹富島に古来多くの人口が住み、穀物やイモ類が不足すれば海浜に出て豊富な魚介をとることでおぎない、自足し、独自の気分を養ってきた。
それがあるために、西表島の大自然が残された。
本土の二千年の鉄器文化と鉄器で育てられた精神とが、ちょうど空気が真空にむかって殺到するように八重山諸島に殺到すれば、いうまでみないことだが、諸事ろくなことになるまい。
司馬遼太郎 「街道をゆく」