2012年2月29日

春の築地の焼鳥丼

丸谷才一「春の築地の焼鳥丼」『食通知ったかぶり』

築地四丁目に、ととやといふ名代の焼鳥屋がある。作りはごくありふれた店だが、安くてうまくてじつにすばらしい。わたしは今度はじめて出かけてみて、世評がまったく正しいことを確認した。本当はここに書きたくないのだが、(なぜなら、あまりはやると、行列をしなくちゃならなくなるし、 味だって落ちるかもしれない)、仕方がないから書く。

 =中略=

やがて出て来たのは、あまり多くない御飯の上に濃い褐色の焼鳥がびつしりと豪勢に並んでゐるやつと、脂の浮いた白いスープで、御飯といっしょに食べると、焼鳥の味はビールのときよりもいつそう引き立つし、スープは濃密で清楚、なかなか都会的な味はひで、白い一滴一滴にエネルギーがこもつてゐる気配がある。

 =中略=

わたしはすつかり満足して、土産に焼鳥弁当を一つ買ひ、よく晴れた日の築地をぶらぶらと歩きだしたのだが、そのときわたしは、何しろ近頃の芝居小屋の食堂はちつとも感心しないから、芝居見物のときはこの焼鳥弁当を買ってゆかうと考へて、すこぶる幸福な気持だつたのだ。赤坂の藝者衆に言はせれば、これもまた生き甲斐といふことになるだらうか。
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