2010年10月8日

三河武士集団

徳川氏ーー三河武士集団ーーのよさも悪さも、百姓の原理の上に立っていたことである。尾張という流通のさかんな土地で成長した信長や秀吉は商人の原理と機略をもっていたが、家康はそういうところがすこしもなく、あくまでも山村の庄屋さんの原理でその生涯を終結した。信長・秀吉という商人が倒産したあと、庄屋さんが出てきて自分のものにし、徳川帝国というものを庄屋の原理でつくりあげた。鎖国も庄屋の原理であり、四民の階級を法制化したのも農民の感覚であり、家康はそれらをさらに意識的に平定の原理であるとし、死ぬ前に、
ーー三河のころの制度を変えるな。
と遺言し、それを天下統治の法制的原理として据えこんだのである。その点、変わったおっさんであった。世界史的にいえば航海商業時代が第二期の隆盛期に入っていたのに、徳川家一軒をまもるためには、世界史の潮流から日本を孤立せしめ、ことさらに農民の原理でしばりあげた。農民の嫉妬心を利用し、相互監視の制度をつくり、密告を奨励し、間諜網を張ったという点で、日本人の性格をそれ以前にくらべてずいぶん矮小化した。

司馬遼太郎 「街道をゆく」