2010年9月30日

谷崎潤一郎 「刺青」

それはまだ人々が「愚(おろか)」と云う貴い徳を持っていて、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。殿様や若旦那の長閑(のどか)な顔が曇らぬように、御殿女中や花魁の笑いの種が尽きぬようにと、饒舌を売るお茶坊主だの幇間だのと云う職業が、立派に存在して行けた程、世間がのんびりしていた時分であった。