2010年9月30日

谷崎潤一郎 「痴人の愛」

この女は、既に清浄潔白ではない。ーーーーこの考えは私の旨を晦(くら)く鎖(とざ)したばかりでなく、自分の宝であったところのナオミの値打ちを、半分以下に引き下げてしまいました。なぜなら彼女の値打ちと云うものは、私が自分で育ててやり、自分でこれほどの女にしてやり、そうしてただ自分ばかりがその肉体のあらゆる部分を知っていると云うことに、その大半があったのですから。つまりナオミと云うものは、私にとっては自分が栽培したところの一つの果実と同じことです。私はその実が今日のように立派に成熟するまでに随分さまざまの丹精を凝らし、労力をかけた。だからそれを味わうのは栽培者たる私の当然の報酬であって、他の何人にもそんな権利はない筈であるのに、それが何時の間にかあかの他人に皮を毟られ、歯を立てられていたのです。そうしてそれは、一旦汚されてしまった以上、いかに彼女が罪を詫びてももう取り返しのつかないことです。「彼女の肌」という聖地には、二人の賊の泥にまみれた足痕が永久に印せられてしまったのです。これを思えば思うほど口惜しいことの限りでした。ナオミが憎いと云うのでなしに、その出来事が憎くてたまりませんでした。