2013年5月28日

山之口貘「兄貴の手紙」

大きな詩を書け

大きな詩を

身辺雑記には飽き飽きしたと来た

僕はこのんで小さな詩や

身辺雑記の詩などを

書いているのではないけれど

僕の詩よ

きこえるか

るんぺんあがりのかなしい詩よ

自分の着る洋服の一着も買えないで

月俸六拾五円のみみっちい詩よ

弁天町あぱあとの四畳半にくすぶっていて

物音に舞いあがっては

まごついたりして

埃みたいに生きている詩よ

兄貴の言うことがきこえるか

大きな詩になれ

大きな詩に

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2013年1月30日


矢野渉の「金属魂」Vol.12:ようこそ、大人の世界へ――「Ai Nikkor 45mm F2.8P」

PC USERのカメラマンとして活躍している矢野渉氏が、被写体への愛を120%語り尽くす連載「金属魂」。第12回は、レンズの名品を回顧する。

[矢野渉(文と撮影),ITmedia]

失われた濃密な時間に思いを寄せて

 レンズ設計に関するエピソードで、気に入っているものがある。
 1960年ぐらいまで(つまりコンピュータが普及する前)のレンズ設計は、ほとんどの時間を「光線追跡計算」というものに費やしていたのだそうだ。設計された光学系に入った光が、どのように屈折して結像するかを計算するもので、選抜された大勢の女性がその7ケタの演算にあたった。
 2人1組になり、お互いに検算を繰り返しながらの作業。それでも午前中に1本、休みを挟んで午後にもう1本の光軸計算をするのがやっとだったようだ。膨大な時間をかけてやっと出来上がったレンズデータを見ながら、設計者はさらに性能の向上を図るための手段を考える……。
 僕が好きなのは、この、昔のレンズ設計の現場を包みこむ濃密な時間の流れだ。膨大な時間と人手、そして経費が投入された、緊張感の漂う現場。設計者へのプレッシャーはいかばかりのものだったろうか。そしてそれは長期間に及ぶ。唯一、設計者が救われるのはレンズが完成をみたときだ。しかし、どんなに優秀なエンジニアでも、その歓喜の瞬間は生涯で数回しか訪れない。
 こうして作られた主にドイツのレンズたちは、みな名前を持っている。それは設計者の名前だったり愛称だったりするが、それほど出来上がったレンズに思い入れがあるということだ。
 ところが現代では、安価な光学設計ソフトが存在し、普通のPCでも半日で10億本以上の光線追跡計算が可能だ。レンズ設計も、「何群何枚のレンズ」ぐらいの「仕様書」を入力すれば、ソフトが光線追跡をしながらレンズの曲率や厚さを「最適化」してくれる。
 かかる時間やコストが10億分の1以下になった今、もはやレンズ設計は、基本的な知識さえあれば誰でも可能な分野になってしまった。残念なことに、そこには過去の設計現場にあったような情熱は感じられない。
 過去のやり方がすべて良いと言っているのではない。効率化は必要なことだし、レンズ自体の性能も現在のほうが数段上だろう。
 しかし、何かあまりにも「軽い」のだ。
 PCの画面上でものすごいスピードで「最適化」されていく設計図を眺めながら、自分は「モノづくり」をしていると自覚できるエンジニアはほんの一握りなのではないだろうか。そして、昔のように愛称を付けられるレンズは、今後は生まれないような気がする。
tm_1010n_01.jpg

粋な選択とは、こういうことか

 僕がこうした名称付きレンズの中で最も好きなのが、カール・ツァイスが製品化した単焦点レンズの「テッサー」(Tessar)だ。理由は、3群4枚というシンプルなレンズ構成にある。100年以上前に設計されたテッサーは、「少ないレンズ枚数で、十分な画像が得られる」という分かりやすい設計で、今も各レンズメーカーで作り続けられている。
 レンズの枚数が少ないということは、コストが安く済み、レンズの小型化につながる。そのため、このエコレンズは写真の歴史をも変えてしまった。高価だったカメラの価格を下げ、カメラの一般への普及を加速させたのである。テッサーはその薄さから「パンケーキレンズ」という新しい愛称でも呼ばれた。
 僕がテッサーレンズを初めて意識したのは、写真学校の夜間部にいたころだ。写真の歴史と理論を教えてくれた先生が、いつもテッサー付きの一眼レフを携帯していたのだ。
 授業は午後9時に終わる。僕らは毎日のように先生と連れ立って近くの居酒屋で酒を飲んだ。興が乗ればその後新宿へ流れて、先生のおごりで始発まで――というのがパターンだった。その間中、ただひたすら写真の話をしていた覚えがある。みんな若かった。
 先生は、「年を取るとだんだん写真を撮らなくなる。でもお前らは若くて下手くそなのだから、たくさん写真を撮らなくちゃならん」と言って上着のポケットから小型の一眼レフを取り出す。写真を撮るわけではない。ニコニコしながら手でカメラの感触を確かめるようになで回し、ファインダーをちょっとのぞいては、またカメラをポケットへと戻すのだ。
 今思えば、そのカメラはコンタックスの139クオーツ(CONTAX 139 QUARTZ)にテッサー45mm F2.8を付けたものだった。ストラップなどという無粋なものは外してある。139クオーツはカメラ本体とワインダーがセパレートになっているタイプで、ワインダーを外せばかなり小型になる。それにテッサーという組み合わせは、僕の目から見ても「大人の粋な選択」という感じがした。僕もいい歳になったら絶対にやってやろうと思っていたのだ。テッサーの似合う大人になることが目標になった。
 その「いい歳」になったとき、時代はデジタルになっていた。コンタックスは写真分野からの撤退を決め、オリジナルのテッサーをデジタルカメラで使うという夢は潰(つい)えた。マウントアダプタを使う手もあるが、せっかくの薄いレンズが分厚くなってしまう。そこで、ほかのメーカーのテッサータイプレンズを探すと、このニコンのパンケーキが浮上したのだ。
 このニッコール45mm F2.8P(Ai Nikkor 45mm F2.8P)も、2006年に製造中止がアナウンスされ、僕は慌ててカメラ店に走ったのだった。これを逃したら3群4枚のオリジナル設計でマニュアルフォーカスのテッサーはもう手に入らない。このレンズはCPU内蔵の、電気接点を持っているレンズなので、今後の新型デジタル一眼にも対応できるのだ。
 実際に撮影してみる。もともとテッサーは「ヌケのいい」シャープな描写に定評があったが、このニッコールはさらにシャープネスが増した感じだ。おそらくレンズのコーティングを変えたり、鏡胴内の乱反射を抑えたりして画質を追い込んでいるのだろう。デジタルでも長く使えそうなレンズだ。
 手持ちのデジタル一眼レフに取り付けて街へ出てみる。先生を見習ってストラップはなし。裸で上着のポケットに突っ込む。
 「どうですか、僕もテッサーが似合うようになりましたか?」
 先生がすでに亡くなられた今、評価してくれる人はいない。答えは永遠に出ないのだが、僕は笑顔でいつもよりゆっくりと歩き出した。
※参考文献:『図解 レンズがわかる本』 永田信一・著/日本実業出版社・刊

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2012年12月31日

法然

第21章  無常の日々

 あるいは“金谷(きんこく)の花をもてあそびて”遅々(ちち)たる春の日を虚しく暮らし、あるいは“南楼(なんろう)に月をあざけりて”漫々(まんまん)たる秋の夜をいたづらに明かす。 あるいは“千里の雲にはせて”山のかせぎをとりて歳をおくり、あるいは“万里の波に浮かびて”海のいろくずをとりて日を重ね、あるいは“厳寒(げんかん)に氷をしのぎて”世路(せろ)を渡り、あるいは“炎天(えんでん)に汗を拭(のご)いて”利養(りよう)を求め、あるいは妻子眷属に纏(まと)われて〈恩愛の絆〉、切り難し。あるいは執敵怨類(しゅうてきおんるい)に会いて〈瞋恚(しんに)の炎(ほむら)〉、やむことなし。 総じて、かくのごとくして、昼夜朝暮(ちゅうやちょうぼ)、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、時としてやむことなし。ただほしきままに、飽くまで〈三途八難(さんずはちなん)の業(ごう)〉を重ぬ。 しかれば或る文には、「一人一日(いちにんいちにち)の中(うち)に八億四千の念あり。念々の中(なか)の所作、皆是れ〈三途(さんず)の業〉」と云えり。 かくのごとくして、昨日もいたずらに暮れぬ。今日もまた、むなしく明けぬ。いま幾たびか暮らし、幾たびか明かさんとする。

『勅伝 第三十二巻』「登山状」より
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2012年12月27日

元暦の大地震

鴨長明「方丈記」- 世の不思議五(元暦の大地震)

 また、同じころかとよ。おびただしき大地震(おおない)ふること侍りき。そのさま世の常ならず。山崩れて、川を埋(うず)み、海はかたぶきて、陸地(くがち)をひたせり。土さけて、水湧き出で、巖(いはお)割れて、谷にまろび入る。渚こぐ船は、浪にたゞよひ、道行く馬は、足の立處をまどはす。

都の邊(ほとり)には、在々所々、堂舍塔廟、一つとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵・灰立ち上りて、盛んなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷に異ならず。家の中に居れば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも登らむ。おそれの中に、おそるべかりけるは、たゞ地震(ない)なりけりとこそ覺え侍りしか。

 かくおびただしくふる事は、暫(しば)しにて、止みにしかども、その餘波(なごり)しばしは絶えず。世の常に驚くほどの地震(ない)、ニ・三十度ふらぬ日はなし。十日・二十日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四・五度、ニ・三度、もしは一日交ぜ(ひとひまぜ)、ニ・三日に一度など、大方その餘波、三月許りや侍りけむ。

四大種(しだいしゅ)の中に、水・火・風は、常に害をなせど、大地に至りては、殊なる變をなさず。「昔、齊衡の頃とか、大地震ふりて、東大寺の佛の御頭(みぐし)落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、猶(なお)この度には如かず」とぞ。すなはち、人皆あぢきなき事を述べて、聊(いささ)か、心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、言葉にかけていひ出づる人だになし。

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2012年12月24日

東京スカイツリーの名称

正式名称決定までの仮称は「新東京タワー」。正式名称は一般公募によって寄せられた1万8,606件の命名案の中から、まずは有識者10人で構成される「新タワー名称検討委員会」によって6つに候補が絞り込まれた。言葉の美しさや親しみやすさなどを基準に「東京スカイツリー」「東京EDOタワー」「ライジングタワー」「みらいタワー」「ゆめみやぐら」「ライジングイーストタワー」の6つが名称候補として選ばれ、2008年春にインターネットを通じて一般投票を行った。その結果、最多得票の「東京スカイツリー」に決定した。

なお公募で最も多く寄せられた「大江戸タワー」はタワー建設予定地近くにある和菓子屋(株式会社森八本舗)がタワーの名称決定を見越してすでに商標を取得しており、3位の「さくらタワー」も以前から高輪プリンスホテルには「さくらタワー」がありすでに商標登録も行っていたために使えなかった。仮称として使用されていた「新東京タワー」も既存の東京タワーに似ており、東京スカイツリーは東京タワーを管理する日本電波塔社とはまったく関係が無いためそれぞれ候補から外された。一候補地だった時期はプロジェクトホームページで「すみだタワー」という名称が用いられていたが、台東地区と連携した2007年夏頃からは見られなくなった。

「東京スカイツリー」は東武鉄道と東武タワースカイツリーの登録商標である(第5143175号ほか)。

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東京タワーの名称をめぐる逸話

「東京タワー」の名称は完成直前に開かれた審査会で決定した。事前に名称を公募し、最終的には86,269通の応募が寄せられた。一番多かった名称は「昭和塔」で、続いて「日本塔」「平和塔」だった。他には当時アメリカとソ連が人工衛星の打ち上げ競争をしていたことから「宇宙塔」、皇太子明仁親王(今上天皇)の成婚(1959年)が近いということで「プリンス塔」という応募名称もあった。しかし名称の査会に参加した徳川夢声が「ピタリと表しているのは『東京タワー』を置いて他にありませんな」と推挙し、その結果10月9日に「東京タワー」に決定した。「東京タワー」での応募は223通(全体の0.26%)であり、抽選で神奈川県の小学校5年生の女生徒に賞金10万円が贈られた。

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