「走れメロス」は、よく太宰の傑作の一つとして迎えられているのみならず、教科書にもひろく載せられている。しかし、ちょうど外国の作家が日本人について書いた小説が(日本の読者の目で見る限りでは)何かこう誤っているように思われるように、これらのヨーロッパブンガクの翻案物は、私の心を動かさない。
太宰が諸作品の中で幾度となくキリスト教に触れていることは、欧米の読者に太宰文学を評価しにくくさせているもう一つの原因である。時折キリスト教は、太宰の生活上の精神的空白を満たしていたもののように思われるのだが、晩年に紛れもなくキリスト教信者だと思っていた、と言う人もいる。しかし、太宰がキリスト教について書いたことは、アメリカのビート族が禅について書いていることと似ているように思われる。・・・聖書の引用やしばしばキリスト教について書いていることは、太宰が実際上キリスト教信者でだったことを少しも暗示しないどころか、キリスト教を信じたいと欲していたことをさえ暗示しない。キリスト教は太宰の好奇心をそそった。そして太宰は聖書の中に、彼自身の意志と情調を表現するのにふさわしい章句を発見したのである。しかし、彼の私生活でどの程度までキリスト教を信仰することができたにしろ、作品の中ではキリスト教は一種の謎めいた要素であって、重要なものではない。キリスト教に触れることで、太宰は彼が望んでいたような深みを作品に加えることはできなかった。
ドナルド・キーン